脱炭素化技術のテクノロジーアセスメントプロジェクトでは、2021年9月〜12月に、持続可能な未来社会における新たな常識や価値観を構想し、その実現に向けて各分野で活動されるフロントランナー(FR)の方々19人に、個別にインタビューを行いました。
プロジェクト側から、本プロジェクトやテクノロジーアセスメントの趣旨、評価枠組の素案について説明するとともに、各FRの活動領域や専門分野の見地から、脱炭素化技術のELSIを検討・評価する上で考慮すべき観点や事柄について、それぞれ約1時間お話を聞かせていただきました。
インタビューを6回に分けてご紹介します。
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PART2
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―評価枠組案をどのようにご覧になりましたか。
松島:最近は環境問題における南北問題が気になっています。編集長を務めている『WIRED』日本版で、アフガニスタンの少女の話を書いたのですが、彼女はきっとグレタ・トゥーンベリのことも知らないし、先進国における環境問題の議論すら知らないと思います。それは教育の問題に関わっています。他方で今、若者たちが TikTokの中でエコクリエイターとして環境問題に対する啓蒙活動をしていて、何百万ものフォロワーがいます。その若者たちの対比が私の中で強烈でした。そうした中で、脱炭素を推進する際の経済的な負担の主体はどこになるのかと考えます。
また、ダイレクトエアキャプチャー(DAC=大気中の二酸化炭素の直接回収)の話は、どこの国が二酸化炭素を出しても、その大気は地球全体に均等に拡がっていくという話と表裏一体です。DACは場所を選ばないので、再生可能エネルギーが普及していて、人件費が安く、土地も安いところでやるのが一番現実的、効率的という話にもなります。記事を書きながら、自分の頭の中で、アフガニスタンの風吹きすさぶ荒野に再エネとDACの機器が並んでいて、現地の人たちが働いている絵が少し見えました。それはグリーンニューディール的に、アフガニスタンに新しい産業をもたらすという意味で良い未来なのか、それとも単なるグリーン植民地のような話になるのか。経済性や公平性を考えるときに、時間軸や地球の環境という意味では全員が同じ条件ですが、それに対するアクターにはものすごく多様性があります。それに対してどうやって立ち向かえるのかを考えています。
―「将来」や「未来」について、どれくらいのタイムスパンで考えることが多いですか。
松島:『WIRED』は目先の新しい技術のことも紹介しますが、2050年や2080年のような不確実な未来のことを、つねに考えているメディアです。社会において常識と考えられていたものが非連続的に、あるいは急激に変化するとき、SF的な想像力も使うことで、「非連続な未来」を思い描くことを意識しています。SFの良さは、空想の世界で科学の法則を1つ変えることで全く違う常識や生活様式が生まれてくること、それにディストピアを描けるところにあります。気候変動についてはそもそもディストピアの言説が多くありますが、それが起こった後で、人々ははたしてどう適応し、そこで新しい文明や生活を築いていくのかまで描けるのがSFの面白さでもあります。
―技術的な進化だけではなく、人々の常識の変化も同時に見ていきたいというお話がありました。はじめにお話しくださったような格差の問題や、また差別や排除の問題について、人々の常識はどのように変化していくと考えていますか。
松島:資本主義による格差が拡大しており、気候変動がそれを助長していくというシナリオが現実のものとなりつつあります。日本や欧米、アフガニスタンの話はフラクタル構造になっていて、一国の中でも恵まれている地域と、貧しい方々が住んでいる危険な地域がある。1つのコミュニティの中でもフラクタル構造があり、今後はそれが先鋭化していく。アメリカのハリケーン「アイダ」もそうですが、大災害が起きたときに、マイノリティのコミュニティが被害を受けて立ち直れないようなケースが、既に何度も起きています。
―脱炭素や気候変動対策に関する新たな技術の中で、倫理的、社会的な問題が懸念されるものとして、特に注目しているものなどはありますか。
松島:そもそも環境分野において、日本は技術に対する信認が低いと考えています。地球のためのアクションと、そのためには適切な科学技術を見極めて有効に使っていくという両軸が日本の文脈では全く交わっていません。自然保護論者の科学技術嫌いは、今回のワクチン接種などでも顕著に現れていたと思います。こうした社会の風潮を変えていくことは大切です。炭素排出ゼロを本当に目指すのであれば、技術のイノベーションに対してしっかり投資して、トライアンドエラーを許容しながら大きな技術的進展を起こさない限り無理なことはすでに明らかになっています。
特に何が一番問題かというと、気温が上がり、気候が極端化して被害を受けるのは貧しく不利な場所に住んでいる人たちなのに、その人たちに「地球に寄り添った暮らしをして、プラスチックを捨てなければ大丈夫」といった神話を信じ込ませることによって(結局それを地道にやるのはその人たちなのに)、結局、根本的には何の手も打たれないままリスクだけがどんどん増大していくことです。これは最も不誠実な態度だと思います。こうした背景を踏まえ、『WIRED』ではカウンターカルチャー的な自然回帰や自然主義の思想と、ディープテックとをどうやって組み合わせるのか、それが今最も現代に必要とされる文脈なのではないかと思っています。
―技術によって解を出していくことに対して、楽観的過ぎても、悲観的過ぎてもいけないということですよね。その間のようなポジションをもう少し言葉にするとどのような考え方になるのでしょうか。
松島:『WIRED』では「技術はツールである」という言い方をすることがあります。ツールは人間が何かをしたいときに使うものですが、その場合、適正なツールという言い方があります。イヴァン・イリイチの言っている「コンヴィヴィアリティ」もそれに近い概念で、ツールは人間をエンパワーして社会を前に進めるものになりますが、ある閾値を超えると、今度は人間がツールを支配するのではなく、ツールによって支配されることがあります。
それは明確に数値で表すものではなく、ある程度概念的なものではあると思います。アメリカの『WIRED』の創刊時のエグゼクティヴエディターだったケヴィン・ケリーの話を聞いた際に印象的だったのが、人間は目の前にある問題を解決するために、技術を発展させたりツールを発明したりするのだけれど、その技術は今、目の前にある問題への対処であって、後々その技術自体が今度は次の問題の種になるということです。ツールによる解決主義に陥るのではなく、たとえ最新の技術を使ったとしてもその解決策は暫定的なものであり、将来においてそれが問題になったときには、改めて次の解決策を考えなければならない、謙虚にそれを繰り返すことの先にしか未来はないと考えています。
―最近の若者の気候変動に関するアクションについては、どのように見ていますか。
松島:やはり若者の方が圧倒的に環境意識は高いと思います。ただ、若者は一般的にはお金もないし、社会的地位もまだ高くないので、大人やエスタブリッシュメント側の働きかけが重要になってきます。例えば、新しいカーボンマーケットの仕組みをビジネスの中に織り込むことを考えるような大学の科学者をどれだけエンパワーできるかも重要です。
環境意識については「プラスチックを捨てない」、「エコバッグを持っていれば大丈夫」といった話に矮小化されてしまっているように思います。自然主義的なライフスタイルが前景化していること自体はよいと思いますが、エネルギーや交通、ロジスティックスの変革がないまま、都市から自然が豊かだといって地方へと人が流れたら、それは負荷の高い現代文明をより広めるだけの悪いシナリオでしかありません。自分たちが自然に寄り添った暮らしをすることと、大局的な社会の話をクロスさせる必要があります。
(2021年9月13日、オンラインでインタビュー)
まつしま みちあき
未来を実装するメディア『WIRED』の日本版編集長としてWIRED.jp/WIREDの実験区”SZメンバーシップ”/雑誌(最新号VOL.43特集「THE WORLD IN 2022」)/WIREDカンファレンス/Sci-Fiプロトタイピング研究所/WIRED特区などを手がける。NHK出版学芸図書編集部編集長を経て2018年より現職。内閣府ムーンショットアンバサダー。21_21 DESIGN SIGHT企画展「2121年 Futures In-Sight」展示ディレクター。訳書に『ノヴァセン』(ジェームズ・ラヴロック)がある。東京出身、鎌倉在住。*所属・役職は当時
―評価枠組案をどのようにご覧になりましたか。
有坂:環境を通じた影響について、経済的価値への反映が不十分のような印象を持ちました。伝統や文化に対し、経済的な価値をつけるのは好きではありませんが、その点がもう少し評価されてもよいように思います。
評価枠組全体については、都市からの視点で作られている印象を持ちました。地方と都市では状況が全く違います。地方と都市部には経済格差があり、地方は経済的・社会的に搾取され、生活の安全や安定がしばしば脅かされます。北海道では、メガソーラーなど再生可能エネルギーを生産する大型施設が次々に作られていますが、その資本は都市部から来ていることが多いため、北海道の自然資源が使われているにも関わらず、利益は都市部に流れているのが状況です。さらに、大型施設の導入は賛成側と反対側に地域を二分することも多く、そうなると、社会関係資本も崩れてしまい、経済的な再分配の話だけにとどまりません。SDGsの観点では、政治や民主主義の部分で、透明性や参画の度合いが評価の基準として入ってもよいと思いました。特にコロナ禍になって、情報の透明性や説明責任といった政治や政策に関する事柄が、自分の生活にもダイレクトに影響すると多くの人が感じるようになっています。一方で、社会の意思決定に参加できる機会は多くありません。気候変動対策は、自らの生活に密接に関わっているテーマであり、「参加」が重要な観点だと思います。市民が政策や自治にどれだけ参加できているのかをはかる物差しとして、アーンスタインの「参加の梯子」がありますが、そのような指標を取り入れることも1つではないでしょうか。真の民主主義を実現するためには、個々人が自らの意見を持つことが重要ですから、気候変動に対する教育及びそのための環境づくりも求められると思います。
―冒頭のお話は、「環境を通じた影響の経済的価値」について、環境に対する影響を経済的な価値に内在化すべきだが、その視点が充分ではないというご指摘でしょうか。
有坂:経済では測ることができない文化や自然の価値は、少なくとも10~20年の単位でなければ評価できないものもあります。短期と長期の目標の議論が混在している印象です。
―「将来」や「未来」について、どれくらいのタイムスパンで考えることが多いですか。
有坂:そもそも2、3年で何かが変わるとは基本的には考えていません。短期であれば10年先、長期であれば100年先ぐらいをイメージしています。
―そう考えると、SDGsはかなり短期の目標になりますね。
有坂:2030年には技術的な部分で何かを変えられるかもしれませんが、倫理的な面や習慣、価値観のような人の内面に関わることを変えるのは難しいと思います。また、札幌の街は100年後の姿を想像してつくられたと聞きますが、今はそのような視点が欠けているように感じます。
―都市と地方の関係について、最近では高レベル放射性廃棄物の処理が問題になっています。そのような問題を多くの人が共有するためには、どのような方法が考えられますか。
有坂:実際、そのような問題に直面する地域を訪れると、お金で買われたような町のつくりや雇用の在り方を目の当たりにします。人口の少ない地域では、意思決定も少人数で行われるので、そのような場所の方が迷惑施設を押し付けやすいのかもしれません。
北海道や東北は、再生可能エネルギーの供給地として、無秩序に、規制もなく外部の資本によって環境が変えられています。エネルギーの生産、消費、廃棄がどこで行われているのか。地方でエネルギーを生産し、都市で消費し、地方に捨てるという日本のリアルへの理解は進んでいないと思います。
また、国の政策や様々な組織の方針などは首都圏で意思決定されることがほとんどです。社会関係資本は地方の方が豊富にあるにも関わらず、それが壊れても、都会の理屈で色々な物事が進められがちです。
―例えば道内における再生可能エネルギー開発の現場にも、同じような構造があるということでしょうか。
有坂:北海道は2018年にブラックアウトを経験して、地域におけるエネルギーの自立や分散の重要性を強く実感しました。ただ、そう思っても都市部に比べて資本力が強くありません。例えばドイツでは、再エネ事業者として、市民出資による「市民エネルギー協同組合」を優遇するなど、エネルギーの利活用と、そこから生まれる利益を地域内で循環させることに注力しています。日本もそのような事例にならい、地域の意向を汲む仕組みが必要だと思います。その場所に住んでいない人は、その土地の山が削られようが、景観が変わろうが関係ないと思えるかもしれません。一方で、住んでいる人たちには直接的な影響があります。ただ、お金で買われては仕方がないと、コモンズのような感覚が失われているようにも感じます。
コモンズはQOLを考える上で重要な視点です。ただ、都市部と地方ではコモンズの感覚は異なると思います。地方では時に厳しく煩わしい面があるとしても、自然豊かで人々が繋がり合うことに優先的価値を置く一方で、都市部に住む人たちは、別の価値観で都市部を選んでいる側面もあります。地方と都市には様々な格差がありますが、価値観の違いもあるとすれば、QOLの高低を測ることは非常に難しいと思います。
―これまでの話を総合すると、評価枠組の4つの列(評価基準)について、実際の社会では一番左の「経済的価値」の列がものすごく幅が広く、右側の「公平性・権利」、「文化・伝統・自然などの内在的価値」の列は非常に窮屈になっているという印象でしょうか。
有坂:表の中では、何らかの事故や停電が起きたときの影響と書かれていますが、その前段では、メガソーラーや高レベル放射性廃棄物処理場を作るときに、地域内で賛成と反対に意見が割れ、分断が生じることがあります。それによってQOLが下がり、文化や自然も壊れ、公平性や権利もなくなってしまいます。そのような事例は各地にたくさんあります。
―今のご指摘は、この枠組を実際どう使うかというお話でもあると思います。この表で色づけしている部分も、この枠組を使った例示であり、全てではありません。枠組を作って、様々な視点を出していただくのがこのインタビューの趣旨でもあります。これまで我々の間では不十分だった視点や、有坂さんの立場だからこそ見えてくる重要な視点をご指摘いただいたように思います。
(2021年9月14日、オンラインでインタビュー)
ありさか みき
RCE北海道道央圏協議会事務局長、Co.DESIGN代表
1978年東京都生まれ。北海道在住。水産業界紙記者や環境団体職員を経て、2015年に独立。国連大学認定の持続可能な開発のための教育に関する地域拠点であるRCE北海道道央圏協議会では16年の設立時から現職。フェアトレードタウンさっぽろ戦略会議事務局長、酪農学園大学特任助教、札幌市環境審議会委員など。*所属・役職は当時
―評価枠組をどのようにご覧になりましたか。
上田:私自身は早々に社会には適応できないと思い、その枠組とは異なるところでの生き方や働き方を自ら選んできました。そして、この釜ヶ崎から世の中の人の偏見を払拭するために日々活動を続けてきました。ただ、「聞いてよ、聞いてよ」と言っても聞いてくれないと思ったので、面白い事、楽しい事をする。私たちが本当に笑いながら「おじさんたちと一緒にこんなことやってます」と言い続ける作戦をとりました。それからもうすぐ20年が立ちますが、状況はあまり変わっていません。
評価枠組の一番右の欄は、比較的私の分野に近いと思います。ただ、この分野でも、経済的な影響はとても大きく、表現や芸術分野の人たちの仕事にも関わってきます。また、それを支える劇場の仕組みも補助金や財団のお金で成り立っている側面があります。それから、地域コミュニティにおいてもそうですが、大人たちが色々な不安や忙しさの中に置かれると、無関心や不寛容、委縮、クレーマーの増加などが起こり、コミュニティが崩壊していきます。ことさらに「社会の安全を守る」と言うとき、排除されるのは少し失敗した人になりがちです。「安全」はとても大事ですが、危険な言葉でもあります。例えば、他の地域の「安全」を守るという名目で、刑務所から出た人が釜ヶ崎に増えていくという状況があります。
―多様性を守るために実は排除しているものもあるかもしれないですね。
上田:多様性は面白いのですが、すごく覚悟がいることです。
―例えばココルームの日常では、多様性に向き合うためにどのような場面で「覚悟」が必要になるのでしょうか。
上田:ココルームに毎日来るAさんという方がいます。多いときには1日に5、6回も来て、注文もせず、その場にいます。他のお客さんとトラブルになることも多かったのですが、出入り禁止にはしませんでした。ココルームでは様々な表現の場を作っていて、Aさんは全然参加しませんでしたが、1年半ほど経過して、手紙を書くワークショップを行うタイミングで、偶然やってきて、手紙を書き始めました。そこで、Aさんの手が止まり、字の書き方を私にたずねてたんです。その時、はじめて字が書けないこと、知的障害のある子どもの施設にいたことを知りました。でも今は障害の手帳も持たないまま暮らして、世間に放り出され、釜ヶ崎で日雇い労働をしてホームレスをしている。そこで、偶然年齢が65歳になったから、生活保護に上がったタイミングで私と出会ったわけです。これまで私は表現をすることが大事だとずっと教わってきましたし、自分もそう思っていました。でも、そうではなく、表現できる場を作ることの方がもっと大事なのではないかと思いました。Aさんは1年半の間に私たちの態度をずっと見ていたと思います。私は是々非々をすごく心がけてきました。Aさんがあかんことをしたら「それはあかん」と言うけれど、もしAさんに絡んできた人がいてその人が悪ければ、その人に「あかんで」と言ってきました。Aさんはそれを見てくれていたのだと思います。
やはり新しさは大事だと思います。Aさんも、生活保護に慣れて少し生活が落ち着いて、私たちという新しい出会いがあったからこそ変われたのだと思います。私は「新しい人が一番えらい」と時々言います。新しい人が入ってくることで、関係を取り結ぶ場所を生み出していくことが大事だと思います。
―例えば今から30年先の未来の日本で、いろいろな人が支え合いながら、みんなでなんとかやっていく社会と、もう少し制度を整えて、そのような人が出ないようにする社会はどちらが良いと思われますか。
上田:制度を作ってもその意味をみんな忘れてしまうし、制度からこぼれる人が出てきます。だから、細かい制度はあまり有効ではないと思っています。みんなが正直に向き合い、関わり合うことは大変ですが、そのことが、誰かに励まされたり励ましたりしていくことにつながると思っています。自分が生きている意味は、そのようなところにあると捉える人がたくさんいること。それが、ゆるやかな制度を弾力的に支えるものではないかと思っています。だから、私はゆるやかな制度とたくさんの居場所があるような社会のイメージを持っています。
―他に評価枠組を検討する上でヒントになりそうなことはありますか。
上田:2019年に釜ヶ崎のおじさんに先生になってもらい、半年かけて自分たちで井戸を掘りました。そうすることで、社会の仕組みを身体化でき、蛇口をひねって水が出ることを疑い、「当たり前ってなんだろう?」と考えました。この社会が途切れることなく循環しているのは、こういった働きを誰かがしてくれているということ、また、その誰かとは名もなき人たちだと言うこともよく分かりました。
―喫茶店の「ふり」をしているという話についてお伺いしたいです。
上田:「アートのNPOです」と言うと、出会える人の幅には限度があります。喫茶店の場合は、それがもう少し広がります。でも私たちは一緒に表現し合うことがミッションなので、喫茶店のふりをして、ついうっかり入ってきてくれた人に対して、表現することに関心をもってもらえるよう揺さぶる感じです。今の日本の社会は専門が細分化されていて、自らの立場に依拠しながらふるまいがちですが、喫茶店のふりと言われると、それが少し揺らぎます。「私はお客さんのふり?」「ねえ、この人は店員のふりしているだけ?」といった反応が起こります。そうやって自らを日常とは異なった人物として捉えられたらよいと思っています。人間には多面的な要素があります。その部分をもう少し立体的に浮かび上がらせるために「ふり」を使っています。喫茶店をしながら、かつ、ふりをすることは自分たちのプラスアルファを見せていくことにつながります。
―例えば脱炭素化の取り組みも、もしかしたら何かのふりをして始めれば、もっと取り組みやすくなるのではないかと思いました。一方で、ふりをしていることが、本当はそれが持っている正体をオブラートに包んだり、隠してしまったりする恐れもあり、だからこそ、ふりをするためにも、相当な覚悟が必要なのだと感じました。
―「将来」や「未来」について、どれくらいのタイムスパンで考えることが多いですか。
上田:これまでの歴史を踏まえると、何か物事を変えるには300年ぐらいはかかると思っています。王様や殿様がいた時代から、少しずつ民主化してきたわけですよね。この社会の中で、より自治的なかたちで、みんなが創造的な行為をしながら、人々や自然、技術と関わり合うような社会を作っていこうと思うと、かなり意識が上がらないと難しいと思っています。おそらく300年ぐらいかかるのではないでしょうか。でも、今から始めなければ300年後はやって来ません。今、私が自分の中で最善だと思うことを、自分の日常の中で実践していきたいと思っています。
(2021年9月16日、オンラインでインタビュー)
うえだ かなよ
NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表、詩人
1969年奈良県吉野生まれ。3歳より詩作、17歳から朗読を始める。01年「詩業家宣言」を行い、さまざまなワークショップメソッドを開発し、全国で活動。03年にココルームを立ち上げ「表現と自律と仕事と社会」をテーマに社会と表現の関わりをさぐる。2008年から大阪市西成区(通称・釜ヶ崎)で「喫茶店のふり」をしつつ学びと表現の場を開いている。*所属・役職は当時
⇒脱炭素化技術のテクノロジーアセスメント フロントランナーへのインタビュー PART3