「ケア」という言葉から、どのような場面を思い浮かべるでしょうか。
多くの方にとって、育児・介護・看護といった領域がまず思い浮かぶかもしれません。少子高齢化が進む日本ではなおさらです。そして今、こうした家庭や現場に閉じ込められがちだった営みを、社会全体の課題として捉え直す必要性が高まっています。
本プロジェクトは、「ケア」の営みを、直接的に「ケア」という文脈では語られてこなかった科学技術をめぐる領域にも持ち込もうとするものです。特に、一見すると「ケア」とは一番ほど遠いようにも思える大規模エネルギー施設の誘致・稼働・廃止をめぐって地域社会が経験する状況を対象に、その意味と可能性を検証することを試みます。
こうした施設をめぐる意思決定では、科学的・技術的安全性や経済性といった「公的」論点が優先される一方で、生活に根ざした不安やとまどい、人びとの関係性の揺らぎといった「私的」側面は後景に退けられがちでした。ケア倫理は、この状況を「公私二元論」の問題として捉え、大規模エネルギー施設の誘致・稼働・廃止をめぐる人びとの不安やとまどいや揺らぎへのケアが公共的な議論から切り離されることで、地域に生じる葛藤が見えにくくなり、構造的に温存されてきたと指摘します。
アメリカの政治理論家ジョアン・トロントが提唱する「ケアの民主主義」は、ケアを私的領域に押し込めず、民主社会の根幹に位置づけようとする考え方です。互いの脆弱さや依存性を認め合い、応答的で対等な関係性を築くことで、公共空間そのものをつくり直すことが求められます。本プロジェクトでも、対話の場を即時的な「解決」のためではなく、「分かり合えなさにとどまる」営みを社会に組み込むための機会として位置づけています。
このような視点から、私たちはまず、多様な意味での語りにくさの背景にある経験を丁寧に記述します。さらに、そこで明らかになる感情や関係性の揺らぎを手がかりに、従来の説明型や合意形成型には収まりきらない、新たな対話のあり方を検討しています。
その中心にあるのは、地域での対話、消費地での対話、立場や価値観の異なる人びとの対話といった、具体的な対話実践です。理論と現場を往還しながら、どのような対話の場が応答可能でありうるのかを探究していきます。
なお、本プロジェクトは、原子力の継続利用を前提に擁護するものでも、関連組織の運営改善や持続可能性の確保を目的とするものでもありません。また、科学技術に関連する施設をめぐる軋轢を、賛否の二項対立に単純化して解決しようとするものでもありません。むしろ、多様な立場や経験、そして言葉にしにくい痛みや不安に丁寧に耳を傾け、持続的で開かれた対話の場が確保されている社会のあり方を探っていきたいと考えています。
本研究の開発要素は大きくわけて次の3つからなります。
研究開発要素(1)地域コミュニティにおける葛藤や違和感を記述する
本研究の柱のひとつは、大規模エネルギー施設と地域社会が交わる場で生まれる、語られにくい感情や関係性を丁寧に記述し、ケアの観点からその意味を記述することにあります。原子力施設立地地域を中心に、住民の語りや沈黙、身体的・心理的な負荷、対話が難しくなる局面を、参与観察やインタビューを通じて可視化します。
また、この射程は原子力に限らず、他の大規模エネルギー施設や、高度な安全性が求められる鉄道・航空などの分野へも広げていくことをも念頭においています。生活空間と専門的判断が交差する場に潜む葛藤や、わずかな揺らぎを丁寧に記述し、ケアと民主主義の理論から再解釈していきます。
研究開発要素(2)技術者コミュニティにおけるケア的対話の姿を探る
原子力専門家コミュニティをも調査の対象とすることは、本プロジェクトの大きな特色です。学会など専門家が集う場や、技術者への参与観察・インタビューを通じて、彼ら/彼女らが日常的に抱える負荷や迷い、地域社会との距離感を丁寧に記述します。
その過程では、原子力技術者に特有の公益意識(それらはしばしば、少なくとも見かけ上はケア的ではないものとして受け止められがちな言動や姿勢、態度につながります)がどのように形成され、どのような制度的・組織的背景のもとで維持されてきたのかについても明らかにしていきます。
ここでは、社会的な立場の違いによって生じる非対称性を前提としつつ、科学者・技術者自身の脆さにも光を当て、ケア倫理に基づいた新しい関与の形を描き出します。
研究開発要素(3)ケアに基づく対話実践の再構成と評価
最終的にはこれらの蓄積は「対話パッケージ」として取りまとめます。この対話パッケージは、現場で対話に取り組む人びとを支えるための手引きとなることを目指しています。これは、決まった手順を示すマニュアルではなく、対話の設計に迷ったり、思わぬ困難に直面したりしたときに、思考と実践のよりどころとなるガイドのようなものです。
分断や沈黙が生じやすい状況の中で、関係性の再構築を模索し続ける当事者に対し、「ケアの民主主義」の理念に根ざした応答の手がかりを提供することを意図しています。また、地域や状況に応じて調整しながら使えるような、応答可能な方法論として深めていくことも重視しています。
八木 絵香(大阪大学COデザインセンター教授)
研究開発要素(1)
青木 聡子(東北大学大学院文学研究科准教授、環境社会学・社会運動論・ライフヒストリー研究)
三上 直之(名古屋大学大学院環境学研究科教授、科学技術をめぐる市民参加・環境社会学・科学技術社会論)
松村 悠子(大阪大学COデザインセンター特任講師、環境社会学・島嶼研究)
郡 伸子(名古屋大学大学院環境学研究科研究員、調査研究支援・アウトリーチ)
研究開発要素(2)
寿楽 浩太(東京電機大学教養教育センター・工学部教授、科学技術社会学・原子力•放射性廃棄物と社会)
定松 淳 (東京大学大学院総合文化研究科・教養学部特任准教授、社会学・科学技術社会論・科学コミュニケーション論)
猪鼻 真裕(総合研究大学院大学統合進化科学研究センター助教、科学技術史・科学技術社会論)
研究開発要素(3)
田原 敬一郎(公益財団法人未来工学研究所政策調査分析センター主任研究員、政策科学・意思決定システム科学・参加型政策分析方法論)
肥後 楽(大阪大学社会技術共創研究センター特任助教、音楽学・文化政策学・アウトリーチ)
鈴木 径一郎(大阪大学社会技術共創研究センター特任助教、臨床哲学・哲学対話)
吉田 省子(北海道大学大学院農学研究院客員准教授、科学史・食と農に関するコミュニケーション・科学と社会)
明田川 知美(北海道武蔵女子大学経営学部専任講師、教育行政学・ジェンダー・キャリア教育)
杉本 裕美(公益財団法人未来工学研究所政策調査分析センター客員研究員、調査研究支援・対話実践支援)
宮本 奏(特定非営利法人きたのわ代表理事、ファシリテーション・対話実践・市民ファシリテーター)
津田 光子(特定非営利法人きたのわ理事、ファシリテーション・対話実践・市民ファシリテーター)
徳田 太郎(特定非営利活動法人日本ファシリテーション協会フェロー、ファシリテーション・熟議民主主義理論)
山本 和則(哲学プラクティショナー・カフェフィロ代表、哲学カフェ実践)松川 えり(哲学プラクティショナー、哲学カフェ実践)
本田 隆行(科学コミュニケーター、科学技術コミュニケーション)
田村 哲樹(名古屋大学大学院法学研究科教授、政治学・政治理論・現代民主主義理論)
佐野 亘(京都大学大学院人間•環境学研究科教授、民主主義・妥協・非理想理論・政策規範)
松浦 正浩(明治大学専門職大学院ガバナンス研究科専任教授、合意形成論、トランジション•マネジメント)
朱 喜哲(大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授、プラグマティズム言語哲学・データビジネスのELSI)
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科学技術と社会をつなぐためのケア概念に基づく対話実践の再構築は、JST-RISTEX(科学技術振興機構 社会技術研究開発センター)の「ケアが根づく社会システム」研究開発領域プログラムの一つとして、2025年10月から2030年3月までの予定で実施。
▽プログラム紹介(JST-RISTEX(科学技術振興機構 社会技術研究開発センター)ウェブサイト)
https://www.jst.go.jp/ristex/funding/care/index.html
https://www.jst.go.jp/ristex/care/